rain

 鈍重な雲が空を覆っていた。冷たい雨粒が灰色の世界を流れ落ちる。俺は自転車で突貫するのは無謀だと悟り、カバンから置き傘を取り出し頭上にかざした。雨粒が傘を叩く音が耳に纏わりつき始めた。
 大学から家までは、自転車なら五分だが歩きでは十五分かかる。雨の日は、地面にできる水溜りに足を取られることも考慮すると更に時間がかかるかも知れない。
 八月も後半、夏休み真っ只中にあるため、大学に人は少ない。悪天候も相まって、家のすぐそばまで走る片側一車線の国道には、学生如何に関わらず人っ子一人いなかった。ただ、いつも忙しないトラック数台が、時折雨水押し退けて通り過ぎて行くだけだった。雨が傘を叩く音が五月蝿い。
 こんなことになるならば、わざわざ大学になど行かなければ良かった。別に今日でなくても良かったのだ、もらい忘れていた成績通知書を受け取りに行っただけなのだ。どうせ見てもしょうも無い程、ろくでも無い成績であることは最初からわかっていたというのに。
 雨水が靴の中に浸透し始めた。歩く度に不快な音と感触を与える。俺のすぐ横をトラックが走り抜けていった。盛大に水溜りの水が跳ねた。服にはあまりかからなかったが、肩から提げていたカバンがだいぶ濡れた。俺は怒鳴ろうとしたが、やめた。中に入っているのは例の下らない成績通知書だけだった。
 雨足が一段と激しくなってきた。もう雨の音しか聞こえなくなった。
 単位は二つ落とした。他は可も無く不可も無くといったところだったが、不幸にも落とした一つが必修であった。卒業するには来年次、三年になってから改めて取り直さなければならない。
正直落とすだろうとは思っていた。こんなことを学んで一体何になるのだろうと思いながら受けていた。三年になってからも同じ事を考えながらこの講義を受けねばならないと思うと、今から憂鬱だった。いや、その講義に限ったことではない、俺にとっては大学の講義全てが、いや、大学そのものが、そのように感じられていた。
 高校三年、受験生の頃が思い出される。必死に勉強したのに、第一志望の国立は落ちた、第二志望の私立も落ちた、結局受かったのは滑り止めの三流大学だけだった。行くか行くまいかは迷った。自分はどこに行っても勉強できる、一年を無駄にしたくないという名目で入学を決意したが、本音はもうあの辛い受験生活を送りたくないだけだった。今思えばそれは間違っていたのかも知れない。
 適度に勉強をし、それなりに遊んだ。それでも入学数ヶ月後からの、時折覚える虚無感だけはどうしようもなかった。俺は何のために大学に行っているのか、それ以前に、俺は何のために生きているのか。期待していた程刺激的でもなく、思っていた程忙しくもない大学生活が、それを増長させた。
 将来の明確なビジョンが無かった。かといって現在に何がある訳でもなかった。受験という一種のフィルターが、俺の大切なものを根こそぎこし取っていってしまったのだと思った。そうまでして辿り着いた新天地で、俺は何一つ得られていないのだとも思った。
 今思えば、高校の頃が一番楽しかったのかも知れない。夢に向かって無鉄砲に突っ込むことができた。そういう環境があった。家に帰れば家族がいたし、そういえば初めてできた彼女もいた。
 実家へはこの前帰った。両親は俺がいなくても生き生きとしていた。もとより、一人でも人生を精一杯に楽しめる人達だった。
 初めてできた彼女とは、雑多な受験生活の中でうやむやのうちに分かれた。もちろん、今は彼女などいない。まるで色のついていないモノクロの世界にいるようだとふと思った。そう、灰色の雨降りしきる、孤独なこの世界に。
 俺は足を止めた。交差点の信号が赤になったからだ。トラックが俺のすぐ前を走り抜け、頬を風と水しぶきが凪いだ。
 ふと気付くと、道路の向こうに人がいた。俺よりも三歳程年下の少女だった。前髪で隠れていて見えないが、恐らく目が合ったのだろう、ゆっくりと微笑んで頭を垂れた。俺はうろたえつつも挨拶を返した。
 結構可愛いなと思った。この灰色の世界の中で、彼女だけが鈍くだが光を放っているような錯覚をした。彼女のような人が俺を必要としてくれたならば、俺はこの世界から抜け出すことができる、もしくはたとえ抜け出せずとも、何らかの指針になってくれるのではないかと思った。そんな下らないことを考えていた。
 信号が赤から青に変わった。俺は慌てて道路へと一歩踏み出した。ばしゃりと水の跳ねる音がした。
 その時である。突然の爆音が俺の耳をつんざいた。振り向くと一台のトラックが猛スピードで交差点に突っ込んで来るのを見た。俺の方にじゃない。彼女の方にである。
「なっ――」
 俺は思わず傘を投げ捨て彼女のもとに駆け寄り――
 ――雨の音が五月蝿い。
 目を開けると、何故か例の少女の顔が目の前にあった。相変わらず前髪で隠れて目は見えないが、俺を覗き込んでいるようだった。近くで見るとやっぱり可愛かった。怪我は無い様で、良かった。
 灰色の空から容赦なく雨が降り注いでいた。だというのに、俺にはそれが感じられなかった。そういえば、体も少しも動かない。不思議なことに、痛みさえもなかった。
 俺は、彼女を助けようとして自らが代わりにトラックにはねられたことを思い出した。そして同時に、もう助からないだろうことも悟った。
 俺は一体何をやっているんだろうな、と笑った。頬の筋肉でさえ動かないから心で笑った。失ってばかりの俺が最後に得たのは、雨の音と、曇天の空と、そして儚げな少女の無事な姿だけだった。結局俺はこの灰色の世界に取り残されたまま生涯を終えるのだ。この世界で唯一見つけた、彼女という鈍い光を守りたかったがために。こんな世界の中でも、俺が生きる意味を享受したかったがために……
 雨の音が、集まってきた野次馬達の喧騒に掻き消されていく。やめろ、無粋な真似をするな、俺の静かな世界に入ってくるな。
「だからよ、何もねぇってのにこいつがいきなり信号無視して飛び出してきたんだよ!」
 何を言っているんだ、お前が信号無視して突っ込んできたんだろ。それで俺は彼女を守ろうとして――!!
 その時、背中に走った怖気が俺の思考を停止させた。少女が突然口元を歪めて、にやりと禍々しく笑ったのだ。同時に俺は気付いた。彼女は傘を差していないにも関わらず、体は全く濡れていなかった。俺を抱き留めているにも関わらず、その服には血の一滴もついていなかったのである。
 俺の傍らを一人の警察官が通っていった。その際、彼女の体をまるでそこには何も無いかのように通り抜けていった。俺は、彼女が人外の存在であることを否応にも理解しなければならなかった。
「私達死神も堕ちたものね。こんな下らない魂しか食すことができないなんて。まぁ、数だけはたくさんあるから、飢える心配はないんだけれども」
 少女はそう言って嘲笑した。突如死の恐怖が俺を襲った。それ以上に、絶望が俺を覆った。それならば俺は一体何のためにこんなことをしたのか。何のために命を賭したのか。何のために死ぬのか。そして、何のために生きたのか……
「さて、肉体も限界が来たみたいだし、そろそろ食べ頃かしらね。
 ではいただきます」
 彼女が俺の口元にそっと唇を近づけた。その瞬間、その口はがばっと開いて俺の体をまるまる飲み込んだ。



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