水の香りがする。ハスの葉の香りがする。何より、神聖な空気の香りがする。ここは、博麗神社である。
「……お嬢様、大丈夫ですか?」
「……うん、心配しないで」
 正直、連れて来たくはなかった。メイリンはレミリアの俯かれた表情を見て思う。彼女にとってここは、大好きだった人を、そしてもう二度とは会えぬ大切な人を、思い出させる場所だからである。だが、彼女は自らここに行きたいと言った。妹に良い香りのする花を摘んで来てあげるため、そして妹の病気が治るよう、お願いするためにである。レミリアはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、強い意志の力が宿っていた。
 あれから、二年の歳月が流れていたのである。
 神社は、主が帰って来なくなってから荒れる一方、良い意味では自然へと還っていく一方であったが、何故か、わずかに生活感が戻っている。それも、かなりずぼらな性格の持ち主の。
「チルノは、ここに住んでるのかな」
「みたいですね……」
(……でも、チルノはよりによって何でここ、博麗神社に……)
 ふと視線を巡らすと、何やら床や畳に散らばるものがある。それはわずかに有色の液体が入った小瓶であり、手に取り開けてみれば鋭い刺激臭、所謂、気付け薬である。
「……幻夢症候群……」
 メイリンは思わず独りごちた。
「え、チルノも病気なの?」
「言ってくれればいいのに……」
「病気だから出ていったの?」
「……一人で戦う気なんだ……」
 これも、メイリンの独り言である。
「たたかう……?」
「違う……戦う気なんてないんだ……」
 だから私じゃなくて博麗神社に、……霊夢のところに行った。そうなんでしょ……チルノ……。胸が苦しくなる、ような気がする。ちなみに世間一般ではこれを妬くと言うらしい。
「メイリン?」
「……帰りましょう、お嬢様」
 チルノなんて、もう勝手にすればいい、という寸法である。だがそのような乙女の心境を、我らがレミリアお嬢様が汲み取る訳が無い。
「いや!チルノに会いたい!」
 いや、汲み取ることは無いが、映すことはあるのかも知れない。メイリンの前に立ち塞がり、頑として動こうとしないレミリアの真摯な姿と瞳を見て、彼女の暗かった表情が徐々に明るくなっていく。
「……そう、ですよね。会いたい、ですよね」
「うん!」
 メイリンは、ついに笑みを浮かべた。
「お嬢様、会ったらどうしましょうか?」
「一緒に帰る!」
「その前に、たっぷりお仕置きしてあげなきゃいけませんね」
「賛成!」

 チルノとほぼ入れ違いである。近いうちに来る、とは確かにスキマで聞いていたが、まさかここまで早くとは、というのが彼女らの心境であっただろう。
 単身乗り込んできた妖夢は、何と紫の目の前で、一瞬にして藍と橙二人を昏倒させてみせたのである。彼女らの苦痛にうめく声が、紫の耳に響き続けていた。
「嘘は嫌いです、紫様」
「……悪かったわね。今度こそ正直に言うわ。あれはあなた達から逃げる途中、スキマに落としちゃった。全く、間の抜けた話ね」
 妖夢が紫を睨みつける。同時に、倒れている藍の目の前に、思いきり太刀を突き立てて見せた。藍の体が、あと一寸(約三センチメートル)近ければ貫かれていた恐怖にがくんと震える。紫の手もまた、わずかに震えた。
「……目的は何なの」
「白々しい。紫様ならとっくにおわかりでしょうに」
 妖夢はゆっくりと床から太刀を引き抜き、鞘に収める。
「幻夢症候群」
 今度は紫だけでなく、藍も橙も反応した。
「年中眠られている紫様がまだ意識を保たれているとは、正直驚きました。よほど無理をなされているのですね。故に、藍様と橙がこのていたらく」
 悔しいが、式と式の式の身としては、ぐぅの音も出ない。妖夢は構わず続ける。
「このように、西行妖は形こそ失いましたが、完全に消滅した訳ではありません。まだその因子は、散り散りとはいえ幻想郷に残っている。拠り所さえあれば、必ず復活する。……だというのに……あなたがそれを隠してしまうから……
 何故です!このようなことをするのは、私とて本意では無いと言うのに!!」
 半ば取り乱した妖夢は、荒げた息を整えるのに少々の時間を要した。
「……復活……」
 これは紫の独り言であるが、それに対し妖夢は、未だわずかに幼さが残る顔立ちに、純真な微笑みを浮かべた。
「えぇ、あなたもそれを心から望んでいるはずです。我が主が旧友、八雲紫様」
 紫がゴクリと息を呑む。その音を、彼女の式である藍は確かに聞いた。

 メイリンやレミリア達が住む人間の里から四半日程飛んだところに大きな湖がある。その一角には紅魔館という、その名の通り真っ赤な洋館があり、かつては屋敷同様紅い主人が住んでいたというのだが、今は雑多な妖怪達がひしめくただの廃墟である。
 さて、その湖の畔にチルノの姿があった。彼女の前には錆付いた大剣が地面に突き立っており、これこそチルノが亡き友、レティ=ホワイトロックの忘れ形見である。
 果たして、チルノはそれを前にして何を思うか。
「……あんたの分まで生きる、そう決めたのにね……」
――剣を教えて欲しいって?いいけど、私の稽古は厳しいわよ?――
――ねぇ、大丈夫?――
――チルノは、強くなったら何がしたいのかしら――
――友達、ね――
――……チルノ……私に近づかないで……――
――逃げて!!――
 ……レティが、にやりと口元を歪ませる。
『あ、あんたは……まさか……幽――』
 はっと、チルノは目を覚ました。わずかな時間ではあるが、いつのまにか眠ってしまっていたようであった。その間、彼女が見ていた夢が悪夢であったのは、その目元に残る涙の跡を見れば容易に察せられよう。

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