幻想郷、それは私達にとって唯一無二の世界。人間と妖怪の共存する、秩序だった世界。
 結界師である八雲紫は、幻想郷の秩序と安定のため、古くから様々な結界を施してきました。彼女の結界はいつも、幻想郷をより豊かに、より住み易いものにしてくれました。でもそれは、同時に、幻想郷の理を覆しかねない力、思想、妖怪、そして人間を封じることでもありました。
 その中に、亡霊の姫である西行寺幽々子がいました。彼女は冥界で、幻想郷の恩恵を受けながら幸せに暮らしていました。でもふとしたことから、彼女は自らの罪深き生前と非業の最期を知り、自らを恨み、その記憶を封印した紫を恨み、そしていつしか、生ある者全てを恨むようになってしまいました。
 幻想郷に完全なる死をもたらそうとする幽々子、友人を止めようとする紫、幻想郷を守ろうとする人々、妖怪。
 いくつもの戦いがありました。戦いの数だけ悲しみがありました。私の大好きな人も、幻想郷を構成する粒子へと還ってしまいました。
 そして、あの日、運命の日、全ての戦いを終わらせたのは幻想郷の意思でした。幻想郷を構成する全てのものが、争い、憎しみ、悲しみを乗り越えて、死を拒んだのです。たくさんの大切なものの犠牲によって、死の瘴気は洗い流されました。
悲しみと引き換えに、全部終わったんだよ、そう言われたのは二年前でした。
 ……でも、幻想郷は、私達が思っている以上に、たくさんたくさん傷ついているようでした……
「……ん……お姉さま……私……どのくらい寝てた……?」
 幻夢症候群。何日も何日も眠り続け、最後にはそのまま目を覚まさなくなってしまう病気。
「……フランっ!」
「やだ……お姉さま……抱きつかないで……くすぐったいよ……」
 お願いです、どうか妹を、連れて行かないで下さい。

「……妹様!目を覚まされたんですね!」
「……うん……」
「……おはよう、メイリン」
 紅美鈴(ホン=メイリン)は、スカーレット姉妹の部屋に入るなり心底からの安堵の笑みを浮かべた。しかし、レミリアの真っ赤に充血した目と、フランドールの覇気のない表情を見て、それはすぐにこぼれ落ちた。全ては、幻夢症候群の所為である。数週間前からこの地で猛威を振るい始めた、正体不明の奇病。極度の睡魔に苛まれ続け、最終的には、眠ったままに息を引き取る病。レミリア=スカーレットの妹であるフランドール=スカーレットは、まさにこの病に犯されている。幻想郷は、何故かくも過酷な運命をこの二人に背負わせるのか。いや、この二人だけではない。メイリンらが世話をしている孤児達や、まだ幼く力の弱い妖怪達、彼らも皆、同じ病に苦しんでいた。
 彼女は思う。この子達を何としてでも救いたい、いや、救う。……しかし、私一人の力で一体どこまでできるというのか。
「……チルノ、まだ帰ってきてないの?」
 長い間眠り続けていたフランドールの言葉である。メイリンは返事に詰まる。
「……お嬢様、妹様、私何か温かいものでも淹れてきますね」
 ちりんちりん。呼び鈴の澄んだ音が響く。件のチルノならわざわざ鳴らすようなことはしないから、来客か、はたまた仕事の依頼か。
(……今はそんな気分じゃないですよー)
 呼び鈴を無視し台所に紅茶を淹れにいく。
(……こんな時に、一体どこに行っちゃったのよ、チルノ)
 あのおバカおバカ、とメイリンは彼女の顔を思い浮かべ悪態をつく。半月程前に理由も告げずに家を出て行ったきり、一度も顔さえ見せてくれていない。仕事の依頼はちゃんとこなしているようだけれども。
(こういう時にそばにいて、一緒に支えあっていくのが家族っていうものじゃないの……?)
 ちりんちりん。澄んだ音。
(……出ませんよー)
 温めたティーカップに紅茶を注ぐ。
ちりんちりん。
(誰もいませんよー、だから帰って下さい)
ちりんちりん。ちりんちりん。ちりんちりん。
(……もう!)
 ガチャンとポットを置き、即席の営業スマイルだけを貼り付けてメイリンはドアへと向かう。
 ちりんちりん。
「はい!万屋チルノです。当社は何でも探すし何でも守るし何でも倒し――」
 ちりんちりん。ドアを開くとそこには少女が、整然を連想させる黒のパンツスーツを纏っていながら、可笑しくもそれを幼稚に着崩した姿の少女が、呼び鈴を何度も何度も鳴らしてじゃれていたのである。メイリンの営業スマイルが、みるみるうちに本物のそれへと変わっていく。
「あ!メイリン久しぶり!橙のこと覚えてる?」
「……久しぶり。もちろん、覚えているわよ」
 少女の橙色の髪の毛の中で、小さな獣耳がひょこひょこと動く。

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